毎年夏から秋にかけて、スズメバチの被害がマスメディアを賑わせる。ハイカーが刺されて亡くなった、遠足の子どもたちが襲われた、町中で大きな巣が発見された……。日本では、年間30人以上がスズメバチの被害で亡くなるという。
スズメバチは大害虫なのか? 玉川大学農学部助教授の小野正人先生は、そんな見方に異議を唱える。「私たち人間がスズメバチの世界を乱すから、スズメバチも仕方なく攻撃してくる。スズメバチは本当は、とても礼儀正しい虫なのです」。
小野先生は、オオスズメバチが攻撃のシグナルとする「警報フェロモン」の成分を突き止めた。それらの成分は特殊な構造をもつものではなく、身近な食品や化粧品に含まれる場合もあるという。この論文は8月7日付「ネイチャー」に掲載され、「化粧品や香水をつけた人が知らず知らずにスズメバチを挑発し、勘違いしたスズメバチが人を襲う?」として大きな話題を呼んでいる。ハチ研究の世界的権威、小野先生に、人とスズメバチの付き合い方を教えていただこう。
──今回の「ネイチャー」の論文は、新聞やテレビで大々的に報道されました。「どの食品を持っていたら、化粧品をつけていたら、スズメバチに襲われるのですか?」という問い合わせがさぞや、多いのではありませんか?
何を意味するかを理論化しない
たしかに、特定の化粧品をつけたり食品を持っていたら、どこにいてもスズメバチに狙い撃ちされる、と受け止めた人が多かったようです。でも、これは大きな誤解です。
スズメバチはあくまで巣を敵から守る防衛手段として警報フェロモンによる情報伝達を行うので、巣の近くでなければ問題はほとんどありません。今回の研究では、世界最大のスズメバチであるオオスズメバチの警報フェロモンの成分を明らかにしましたが、ほかのスズメバチもそれぞれ異なる警報フェロモンをもっていて、各々香りの組み合わせで警戒情報の伝達を行っています。日本には計7種の大型のスズメバチがいますし、ピタリ同じ化合物でなくても類似の構造をもつ物質であれば、彼らを刺激してしまう可能性がないとは言えません。したがって、「この化粧品さえつけなければよい」という対策はないのです。ただ、スズメバチが、私たちの身近な香りを警戒情報にあたる言葉として使用していたという科学的な新事実は� ��今後私たちがスズメバチの被害を回避する上での重要なポイントになったのではないかと思います。
──それでは、今回のご研究の意義をもう少し詳しく教えてください。
人間は双方向くるぶしまでの靴下になって引き起こされるもの
まず、スズメバチの攻撃パターンを説明しましょう。スズメバチは、人などが巣から5〜10mほどの距離に近づいてくると、動きや振動などをキャッチし、2、3頭が近づいてきて、アゴをカチカチといわせながらまとわりつくように飛び始めます。でも、この段階では刺しません。スズメバチも、なるべくなら攻撃などで体力を消耗せずに餌集めに専念したいので、きわめて礼儀正しく「近づくなよ」というサインを送ってくるのです。
この時、人は静かに後ずさりして、来た道を戻ればよい。ところがあわてて叩いたりするとたいへんです。スズメバチはいきなり攻撃モードに切り替えて刺し、毒液を放出します。この毒液の中に、毒の成分とともに、「みんなで攻撃する時だぞ」と仲間に知らせる「警報フェロモン」が含まれており、揮発して空中をただよい巣に届きます。すると、大量の働き蜂が、巣からスクランブル発進をかけて、襲ってきます。
では、毒液の中にある警報フェロモンは、いったいどんな化学物質なのか? これを突き止めるのが、今回の研究の主題でした。
──どのようにして、調べたのですか?
クリスタルゼリーはどこを食べていますか?
まず、オオスズメバチの毒嚢から毒液を取り出し、常温におきます。すると、組織を破壊したり、痛みの原因となる毒成分は重いので蒸発しないのですが、一部の物質が揮発してきます。警報フェロモンです。
この揮発成分だけを特殊な吸着剤でつかまえて、どんな物質から成り立っているのか調べました。すると、約10種類の化学物質が含まれ、そのうちの三つが重要であることが分かってきました。中でも、2-ペンタノールという物質が最も大切で、単独でも警報フェロモン全体の半分くらいの活性を示します。ほかの二つの物質は、それぞれ単独では活性がほとんどないけれど、三つの化学物質が合わさると、警報フェロモンと同等の活性にまで上がることも分かりました。
この仕組みは、たいへん興味深いことです。揮発性の物質は、一般に構造が簡単で重さが軽いのです。そうでないと、空中をただよえません。しかし、構造が簡単であれば、生物は作りやすく、自然界のどこにでもある可能性が高くなります。
ここから先は推論ですが、警報フェロモンが一つの化学物質であれば、スズメバチは空中から巣にその化学物質が届くたびに「信号だ、攻撃だ」とスクランブル発進し、誤作動を繰り返すことになってしまいます。しかし、三つの化学物質が届いて初めて警報となる仕組みなら、誤発進はめったに起らないでしょう。
さらにもう一つ、面白いことがあります。三つの化学物質の一つは、「ここにおいしい餌があるよ」と仲間に知らせる「餌場マークフェロモン」でもあるようなのです。一つの化学物質が、ある時は攻撃を知らせるフェロモンになり、ある時は餌場を知らせるフェロモンになる。その違いは、ほかの物質との組み合わせ方や配合比、濃度などによるもののようです。
なんだか、人がアルファベットやあいうえおを組み合わせて話すのと似ていると思いませんか。
──この三つの化学物質が、バナナなどのフルーツの香り成分や化粧品に使われる香料などに含まれる場合がある、ということですね。
そうです。ただし三つの物質は、人に好まれる香りを構成する成分の中でもマイナーなものですよ。
それに、私たちの研究グループは、日本にいる計7種のスズメバチの警報フェロモンを、既に絞り込んでいます。それぞれのスズメバチによって、警報フェロモンに含まれる化学物質の数も種類も異なり多様です。
したがって、学術的には個々の物質の構造がたいへん重要なのですが、応用という観点からは今回の論文で明らかにした三つの物質が含まれる化粧品や食品を探したところで、あまり意味があるとは言えないでしょう。オオスズメバチは避けられても、ほかのスズメバチを刺激するかもしれませんし、自然界にはマタタビの香りに猫が反応してしまうような予期せぬことも起こりえるのです。「スズメバチの巣があるところでは、香りの強いものの使用を控える」、これが大切だと思います。
警戒情報だけではありません。人がよい香りと感じる化学物質が、スズメバチの「言葉」であることを考えてください。化学物質による情報のやりとりは、警報フェロモンや餌場マークフェロモンだけに留まりません。女王蜂だけが出す女王物質や性フェロモン、幼虫が出す蜂児フェロモン、「ここに巣を作るぞ」と仲間に呼びかける造巣フェロモン、同じ巣の仲間だけを識別する巣仲間認識物質など、さまざまな種類があります。
人が使う天然香料や合成香料、食品の中に、これらと同じ物質や構造がよく似た物質がある可能性は高いのです。だから、スズメバチが言葉を交わしているかもしれない山や森には、香りは持ち込まず、スズメバチの世界を乱さず、不幸な「ハチ合わせ」を避けてほしいのです。もちろん、香りは私たちの生活に潤いやアクセントをもたらしてくれる大切なものです。街中でのおしゃれやパーティーなど、スズメバチの巣に「聞こえない」ところであれば、誤解は受けませんよ。
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